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第558号 2004(H16).11発行

PDF版はこちら 第558号 2004(H16).11発行

 

 

植物栄養学の先達たち-5-
ジョン・ベネット・ローズ
-農業近代化に生涯を捧げたイギリスの一地主-

京都大学名誉教授
高橋 英一

 ローズ(John Bennet Lawes)は肥料工業と農事試験場の創始者として,農業の近代化に貢献したイギリスの地主(Country Gentleman)です。彼は前回紹介したリービヒとは対照的な性格の偉大な人物でした。

ドウベニイ(Daubeny)との出会い

 ローズは1814年12月28日ロザムステッド(Rothamsted)*1の,16世紀から続く古い地主の家系の長男に生まれました。8歳で父を亡くしま
したが,その時地所以外に遺産は殆ど残っていなかったということです。

 彼は名門のEaton校からOxfordのBrasenose College ヘ進学しますが,学位を取ることなしに2年足らずで退学してしまいます。しかしその時に講義を聴いたDaubenyとの出会いは,彼の人生に大きな影響を与えました。

 Daubeny(Charles Giles Daubeny 1794-1867)はOxfordの化学や植物学の教授を歴任し,幅広い活躍をした人でした。その一つに植物園を整備すると共に,自費で土地を買い足して農事試験を行ったことが挙げられます。

 彼は著書の中で「土地と作物に対する肥料の作用を正確に知るために,一連の試験が行われれば農業経営者にとって大変有益だろう。それは科学者の手で,そのために設けられた試験圃場で行われるのが一番よい。しかしそのようなことを個人的にやってくれる実際経験と資力と科学的知識を兼ね備えた人が果たしているだろうか」と述べています。

 ロザムステッドの図書室にあるこの書物の上記の箇所には,おそらくローズの子によると思われるアンダーラインが引かれていますが,ローズが圃場試験を始め農事試験場の創始者になったことに,Daubenyの影響はみのがせないと思います。

製薬の化学から農業の化学ヘ

 1834年に大学をやめてロムステッドに戻ったローズは,少年の頃から好きだった化学実験を再開しました。彼は圃場で薬用植物を栽培して,それから薬効成分を抽出しようとしたり,昇コウ(HgCl2)や甘コウ(HgCl)を安くつくる方法に挑戦したりしました。結局これらはあまり成功しませんでしたが,塩素ガスを発生させるために多量の硫酸を扱うのに習熟したことは,後に過燐酸石灰を製造する際に役立ちました。

 ローズが農業の化学に関心をもつようになったのには,つぎのような事情がありました。1801年から1815年まで続いたナポレオン戦争によって疲弊していたイギリスの経済は,回復から繁栄に向かいつつあり,それとともに食料の需要が増し農業も活況を呈してきました。そのため農民の肥料への関心が高まりました。当時人気のあった肥料は骨粉でしたが,骨粉がよく効く土壌もあれば全く効かない土壌もあって農民は戸惑っていました。

 ローズがOxfordから戻ってしばらくして,近隣の地主のデーカ卿(Lord Dacre of Kinpton Hoo)がこの問題をローズにもちだし,君は化学実験が好きだからその理由をみつけてみないかと勧めたということです。ローズは1836年から3年間,カブに骨粉を施肥しましたが効果はありませんでした。1839年には骨粉やリン酸塩鉱物を硫酸で処理してリン酸塩を可溶性にしたもの(過燐酸石灰)を試験したところ,今度は大変効果がありました。そこで1840,41年に圃場試験を行ってその効果を確認し,翌1842年5月に過燐酸石灰の特許を獲得しました。その骨子は「肥料にする目的で,硫酸を使って骨,骨灰,燐灰石,燐鉱石その他リン酸を含む物質を化学的に分解する」というものでした。当時同様な肥料の特許の申請者は何人もおり,まさに間一髪の出来事でした。*2

過燐酸石灰工業の立ち上げ

 ローズは事業の成功の秘訣は迅速さにあることを知っていました。彼は1842年12月28日,中国磁器の収集で有名なFountain家の娘Carolineと結婚しましたが,大陸への新婚旅行をキャンセルして花嫁同伴でテムズ川を船で工場用地を探し回り,テムズ川南岸のDeptford Creekに格好の土地をみつけました。

 そして翌年過燐酸石灰の製造は,ロザムステッドからここに立てられた工場に移され,本格的な工場生産が始められました。ロザムステッドでは原料と製品の輸送にコストがかかり過ぎ,商売にならないと判断したためでした。そして同年の1843年7月1日付けGardeners Chronicle誌上に,Deptford Creek工場産の過燐酸石灰の広告が始めて掲載されました。さらに1857年にはより広い工場用地をBarking Creekに入手し,1860年からここでも生産を開始しました。こうして彼は人造肥料の製造販売で,年に4~5万ポンドもの純益を上げる様になりました。

 ローズは企業家としても優れていました。機を見るに敏であり,決断が早く,実行力に富んでいました。競争者に対しても断固として自分の権益を守る気概と才覚を持っていました*3。これによって遺産を相続した時,地所以外にみるべきものを持たなかった彼は事業に成功し財を築きました。しかし彼の終生の関心は,科学的な方法技術によってイギリスの農業生産を向上させることにありました。そのため彼は農事試験場を設立し,事業であげた利益をその運営維持につぎこみました。彼こそDaubenyが望んだ,農業の実際経験と資力と科学的素養の三つを兼ね備えた人でした。

リービヒとの論争と長期圃場試験の開始

 1843年6月,ローズはギーセン大学のリービヒのところで学位をとった化学者のギルバート(Joseph Henry Gilbert)をロザムステッドに迎えました。それは圃場試験の結果を収量調査だけでなく,化学分析からも考察したいためでした。ローズとギルバートの共同研究は1900年のローズの死まで続きました。これは科学史上最長の共同研究であり,二人によって始められた圃場試験は150年以上を経た今日なお続けられており,これまた世界最長の継続試験です*4。ロザムステッド試験場設立の日付はローズによって,二人の共同研究がはじまった1843年6月とされています。

 思えば1843年は農業技術史上まことに記念すべき年でした。それは化学肥料工業誕生の年であるとともに,世界最古の農事試験場の基礎がおかれた年でした。この二つによって,今日の合理的な集約農業の手段と方法が約束されたのでした。

 ところで1840年に出版されたリービヒの有名な著書「化学の農業と生理学への応用」の中に,”作物は樹木や潅木や野生の植物と同じだけの窒素を大気中から得ている。しかしそれは農業上からは十分とはいえない。”というくだりがありますが,1843年の第3版になって”そしてそれは農業上からも十分である。”と改められました。

 ローズは窒素よりもミネラルの補給を重視したリービヒのこの所説に疑問を抱き,これを検討するための圃場試験を始めました。その結果窒素を与えずミネラルのみを施肥したときのコムギの生育収量は,無肥料の場合と殆ど変わらないが,少量のアンモニア(硫安)を与えると,大量の厩肥を与えた場合に匹敵する収量が得られました。そしてその効果は一年でなくなることが,1844年の試験で判明しました。

 この結果をふまえ翌1845年ローズは,リービヒの”土壌が養分となるミネラルを十分含んでいれば,ほとんどの作物はアンモニアの供給を必要としない。”という説には同意できないとする論文をAgricultural Gazette誌上に発表しました。時にローズは31歳,学位もない一介の肥料製造業者の,11歳年長の学界の大御所リービヒ男爵への果敢な挑戦でした。これがその後長く続く両者の論争の始まりですが,それについては吉田武彦氏の「リービヒ、ローズ論争関係資料」(北農試研究資料第40号1989)に譲ります。

 1843年以来ローズは,ロザムステッドのHome Farm(自営農場)で後”Clasical Experiments”と呼ばれる長期圃場試験を始めました。これらの圃場試験はリービヒとの論争に有効な武器になったばかりでなく,ロザムステッド試験場の圃場第一主義の伝統を培う礎になりました。すなわち生産現場である圃場に試験区を設けて栽培を先ず行い,得られた結果を実験室で化学技術や理論(それらは時代と共に進歩する)によって解釈するという立場です。

 農業は自然の中で営まれる生産活動であるので農業技術の評価は「自然」に語らせるのが一番であり,ロザムステッドの圃場第一主義はローズの「農業者」としての立場から生まれたものといえます。この点,理論を重視し,実際農業を軽視しがちであった大学教授のリービヒが,労力と費用のかかる実地試験を惜しみ,実験室で行った分析結果をもとに理論を組み立てたのと大きな違いがあります。

 最近「持続可能な農業」の重要性が叫ばれていますが,そのためには土地の生産性が「自然」と「人為」の下でどのように変化してゆくかを把握しておく必要があります。そしてその観測の役割を果たしてくれるのが「長期圃場試験J」です。ここにローズによって始められたClassical Experimentsの今日的意義があると思います。

家畜栄養に関する研究

 ローズは人間の栄養について,例えば都市と農村の食事の違いや,職業と栄養摂取必要量の関係などに興味をもっていました。彼は炭水化物よりも脂肪がエネルギー的にすぐれていることに注目し,労働者が動物性脂肪を安く摂取できるようになれば栄養の改善に役立つだろうと考えて,1848年頃から家畜の肥育について研究を始めました。

 それらの成果は1858年に発表されましたが,それは本文212頁に表101を含む大部なもので,いろいろな新しい知見が示されていました。例えば代表的な家畜の化学組成を明らかにするとともに,家畜の体には飼料に含まれている以上の脂肪が蓄積されており,それは飼料中の炭水化物の一部が転換したものであること,窒素成分もまた脂肪の蓄積に貢献していることなどを述べています。また飼料の違いは脂肪の蓄積のほかに,家畜の排泄物の肥料価値にも影響することを明らかにしています。

下水の農業利用の研究

 水洗便所の普及につれてロンドンでは下水処理の問題が持ち上がりました。テムズ川には396にものぼる下水溝が開口しており,都市の屎尿を垂れ流していたので,川の汚染は年々ひどくなっていました。この対策には,下水を草地に撒く方法と浄化処理後河川に流す二つの案がありました。

 これについてローズは1858年テムズ川特別委員会から諮問受けましたが,彼の意見は下水を無処理のままロンドン郊外の湿地に施すというものでした。ローズは1861年から1863年に至る3年間,Rugbyの農場で下水灌漑の試験を行いました。その結果は,下水の灌漑量に比例して採草量と草の窒素含有量は増加し,乳牛に対する飼料価値も増大するというものでした。

サイレージの研究

 多汁質の飼料作物を塔状の貯蔵所(サイロ)に詰めて密閉し,乳酸発酵させて牛などの家畜の冬季飼料(サイレージ)にする技術が1880年代になってイギリスにひろまりました。当時イギリスは深刻な農業不況に見舞われており,ローズはこのような中で農民達が地主の建てたサイロの使用料を喜んで払うだろうかと疑問に思いました。

 ローズは1884年に2基のサイロを建設し,サイレージという新しい発酵貯蔵飼料が,在来飼料の干し草やカブにくらべて飼料価値はどうか,またどのように利用したらよいかについて2年間試験を行いました。そして多くの価値ある知見を得,それを18の表を含む54頁の論文として発表しましたが,このとき彼はすでに70歳を超えていました。

Lawes Agricultural Trust の設立

 1872年ローズはDeptfordとBarkingの工場を二つともLawes Chemical Manure Companyに30万ポンドで売却しました。これについて彼は顧客に送った手紙で,余生を農業研究に捧げたいこと,また早い時期に実験室と試験圃場をトラストに移管すると共に10万ポンドを委託し,その利子を自分の死後ロザムステッドで行なってきた研究を継続するのに当てたいことなどを述べています。このLawes Agricultural Trustは17年後の1889年に設立され,現在にいたるまで試験場の運営にあたっています。

ローズの偉大さ

 ローズは農業の進歩は農業経営者を豊かにし,農業労働者に支払われる賃金もよくなり,ひいては農村社会全体の繁栄につながると考えていました。それには詐欺師のペテンや地主の圧迫から守られねばならないし,肥料商や家畜取引業者と公正な条件で取引ができねばならないが,それには適切で正確な情報が必要になります。

 そこで彼は最大の収益を得るためにコムギに施用すべき窒素,リン酸,カリの量を知るための圃場試験*5や,肥育牛の生体重と肉の市場価値の関係,高価な飼料を与えた家畜由来の厩肥の残効の評価(tenant right-土地を離れる借地農が家畜に与えて来た飼料の肥料価値に対する補償-の評価)の問題などについて数々の試験を行い,その結果を詳細な報告に示しました。

 ローズはまた農場の一部をallotment garden(今日の市民菜園)にあて,その中にクラブハウス(Rothamsted Allotment Club)を建てました。彼はここで年一回晩餐会を催し,また長年にわたってメンバーのための貯蓄銀行を開きました。それは彼の農場で働く者やHarpenden地域の手工業者のためのものでした。そのほかHarpendenの教会や二つの小学校の建設に費用をだしたり,Harpenden Commonの環境を守るために柵や道をつくったり,いろいろと地域社会のために努力を惜しみませんでした。表にみられるように,ローズの長い人生はVictoria女王の長い治世と重なっており,彼は典型的なビクトリア時代のCountry Gentlemanでした。

 ローズもリービヒもそれぞれ農業の近代化に大きな貢献をしましたが,その仕方には遠いがみられます。リービヒは創設した化学実験室で行った分析結果を中心に組み立てた理論を農業に適用しようとしました。それに対してローズは自分の圃場を実験の場にしていろいろな試験を行い,最も効果のある施肥のあり方を実証するという方法をとりました。そしてこの方法は,その後世界の各地に設けられた農事試験場に受けつがれました。ここに農業者ローズのリービヒとは異なる偉大さがあると思います。

*1 ロンドンのSt. Pancras駅から北ヘ,Luton行きの列車で40分ばかり行ったところにHarpenden Centralという駅がある。ここで下車して5分程町並みを通り過ぎると,Harpendenの町の紋章の標柱が立つ緑の芝生におおわれた共有地にでる。そしてその西側に木立に囲まれて,Rothamstedのかつての荘園がひろがっている。

*2 家畜の骨を硫酸で処理したものを肥料に用いた人はほかに何人もいた。スコットランドのSir James Murray は”vitriolized bone”(硫酸で処理した骨の意)という名前で1808年から使用しており,その特許をローズと同じ日に認められている。ローズはこのMurrayの特許を1846年に買い取った。ローズの特許に対する他の業者からの訴訟は1850年から始まり,その結果ローズは過燐酸石灰の原料として骨,骨灰,骨粉を使用する制限条項を放棄した。しかしアパタイトのようなリン酸鉱物から製造した過燐酸石灰については,特許使用料を取る権利は保有した。また1853年には糞化石をめぐって,それを骨と同等のものと見なすか否かについて争われたが,結局ローズは糞化石についても権利を認められた。

*3 1866年ローズはDeptfordの対岸に位置するMillwallにあった,食品保存用の酒石酸とクエン酸を製造する工場の所有者になった。それは彼にとって余り気乗りのすることではなかったが,いったん所有者になるや積極的に活動を始め,いろいろな創意工夫によってドイツとの競争に耐え,イギリス最大のクエン酸・酒石酸メーカーに成長させた。

*4 長期圃場試験からは多くの興味深い結果が得られている。これについては,高橋英一 ジョン・ベネット・ローズとロザムステッドにおける長期圃場試験-その今日的意義について 1-3 農業及び園芸 69巻 1159,1269(1994),70巻 455(1995)参照。

*5 当時肥料についてはいろいろな情報が語られたり書かれたりしていたが,実際の圃場における効果の情報はほとんどなかった。肥料を購入した農民は,施用してから数ヶ月がたたないとその効果が判明しないという状態におかれていた。ローズの設計した圃場試験は農民に分かりやすく人気が有ったので,各地から見学者が絶えなかった。そのときローズ自身がしばしば現地説明者になった。遠くから訪れた見学者の休息のため,芝地の上に大テントが張られ,コールドビーフ,チーズパン,ビールが振舞われるのが常であった。

参考図書

1.Geroge Vaughan Dyke
  John Lawes of Rothamsted,Hoos Press 1993

2.Sir E. John Russell
  A History of Agricultural Science in Great Britain 1620-1954
  George Allen & Unwin Ltd. 1966

 

 

肥効調節型肥料を用いたイチゴの
低コスト高設ベンチ全量基肥栽培技術
<前編:空中採苗ベンチにおける子苗生産>

栃木県農業試験場 栃木分場
いちご研究室
技師 畠山 昭嗣

1.はじめに

 土耕による慣行のイチゴ栽培は,中腰や低姿勢でのつらい作業が多く,10a当たりの総労働時間が2,000時間にも及ぶ極端な労働集約型作目であることから,これまで様々な省力・軽労化技術が開発されてきた。その中でも高設ベンチによる養液栽培は,作業姿勢の改善,労働強度の軽減,土作りの省力化の面から注目され近年急速に普及している。栃木県内でも,炭疽病や萎黄病など土壌伝染性病害に罹病性である’とちおとめ’に主力品種が移行してからは土壌から隔離し,子苗増殖の作業の省力化が図れる空中採苗ベンチは急速に導入が進み,普及率は約30%(平成14年産)となっている(写真1)。

 しかし,苗増殖を含めた高設ベンチによる養液栽培は,導入コストが高くなることが普及の障害になっていることが多く,コスト低減が課題となっている。そこで,栃木農試では高価な液肥混入型装置(100~150万円)を用いずに安価な潅水装置(数万円~・写真2)で栽培可能な肥効調節型肥料を用いた低コスト空中採苗技術を開発し一定の成果が得られたので,ここに試験結果を報告する。今回は全量基肥による空中採苗について紹介し,次回は本ぽにおける栽培技術について紹介する予定である。

2.試験方法及び栽培概要

 品種は’とちおとめ’を用いた。子苗増殖用の親株は2002年3月25日に高さ約150cmの空中採苗ベンチヘ株間30cm,2条千鳥植えで定植した。空中採苗ベンチのベッドシステムは,栃木農試開発ハンモック式養液栽培の開放型システム(以降開放型・図1)と,防根シート,給水シートとを重ね,貯留液からの毛管給液を併用する閉鎖型システム(以降閉鎖型・図2)で検討した。

 培地はクリプトモス(杉皮を主体とした難分解性の有機質培地)とパーライトの混合培地(比率7:3)を使用した。施肥量及び肥料の種類は肥効調節型肥料のロングトータル140日タイプ(以降ロング140日)を基本とし,子苗発生が多くなり,肥料の吸収量も多くなる6月以降に肥料溶出が増加するスーパーロング140日タイプを混合し,不足分の微量要素はようりんで補った(表1)。基肥肥料は培地上に直接ばらまきで施肥した(写真3)。

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3.試験結果

 子苗増殖期間中の培地表層(施肥位置)の最高温度は31.0℃,最低温度は2.3℃,平均温度は19.8℃で,ハウス内最高気温は33.8℃,最低気温は5.8℃,平均気温は20.1℃であった(図3)。

 ロングトータル140日の窒素溶出は7月12日の採苗時点で56%,スーパーロング140日は27%であり,リン及びカリは窒素より30%程度溶出が遅い傾向であった(図4)。

 開放型の潅水は閉鎖型の潅水量の約30%増として管理した。開放型システムにおける潅水量は,親株定植直後から約1ヶ月間は100ml/株/日程度で推移し,子苗が急激に増加してくる5月中旬からは潅水量も大幅に増加し,6月上旬には1400ml/株/日となった。梅雨時期は一時的に潅水量が少なくなるが,梅雨以後採苗期まで1000ml/株/日を超す潅水量であった(図5)。

 栽培期間中の培地内溶液ECは施肥位置下6cm及び10cmの2地点を調査した(図6)。

 基肥栽培の培地内溶液pHは,養液栽培が6cm位置で6.0前後,10cm位置でも5.5~6.0程度で推移していたのに対し,開放型・基肥Aが5.0前後,他の基肥区は4.0程度とかなり低めに推移した。6cm地点の培地内溶液ECは,全般的に基肥栽培が養液栽培より高く推移したが,その中でも開放型・基肥Bが比較的養液栽培に近い値で推移した。また,10cm地点では基肥及び養液の各処理とも栽培期間中1.5dS/m以下と低めに推移し,培地内溶液濃度から生育に及ぼす影響を判断するのは難しかったため,培地内溶液採取位置は培地下6cmが適していると考えられた(図7~10)。

 葉数1~3枚の採苗時最適な子苗発生数は,開放型・基肥Bが養液と同程度であり,実用性が高いと考えられた。しかし,閉鎖型では養液と比べ,明らかに子商発生数が劣る傾向であった(図11)。

4.まとめ及び考察

 空中採苗ベンチの全量基肥栽培は,開放型システムを用いロングトータル140日夕イプ(N2.0g/株)とスーパーロング140日(N5.5g/株)及びようりんを現物5.0g/株混合して施肥することで養液栽培と同程度の子苗が生産できた。現地でも低コストな空中採苗基肥栽培は普及しつつあり,今後さらに普及が期待される。  

 当初の目的であった基肥栽培で養液栽培と同程度の子苗数を確保することはできた。しかし,環境保全型農業を可能とする閉鎖型システムでは培地内溶液のECの上昇が懸念され,子苗発生数も減少した。また,スーパーロング140日タイプは溶出率が栽培期間中の総量で20~30%と非常に少ないなど問題が残った。今後は閉鎖型システムに適した肥料タイプの再選定が課題である。

 

 

旧加賀藩政時代の虫塚から学ぶこと(前編)

石川県農業総合研究センター
生産環境部 病理昆虫科
農業研究専門員 森川 千春

 加賀産業道路(主要地方道・金沢小松線:県道22号)を金沢から小松方向ヘ進むと,埴田南交差点,手前左角の小高い竹林の一端に天保年間に建立された虫塚がある(図1)。

 「天保の虫塚」10)「三宅野虫塚」4)と称されていたようであるが,昭和29年8月,国府村史編纂委員会が史跡保存のため村当局に計り両側の地主から土地の分譲を受け,柵を設け標柱を建てて「埴田の虫塚」と命名した10)。昭和38年11月3日文化の日に小松市の市指定文化財となっている。現在の地番が「小松市埴田町ニ257番地2三宅野」,当時の記述では「目明野の物見坂」とある11)。目明野は三宅野と同じであろう。ゆるやかな丘陵の頂点に近い位置にあり,「物見坂」の名のとおり,周囲の水田地帯を一望できる,稲作のシンボルを設置するにふさわしい位置である(図2)。

 現在は,すぐ脇を加賀産業道路が,虫塚を避けるように切通しで通っている。天保十年(1839年),こぬか虫(ウンカ・ヨコバイ類)が大発生したときの状況や駆除方法を,直径30cm,高さ170cm(実測では163cmであった)の円柱状の鵜川石に記し(図3),徳橋組第八代十村役・田中三郎衛門により建立された11)

 聞き慣れない単語が連発されたところで,まず,その説明を終わらせてから碑文を見ることにしたい。「国府村」は徳橋郷と山上郷の一部が,明治四十年(1907年)に合併した旧村で,昭和三十一年(1956年)に辰口町(能美郡)と小松市に分離して合併・併合された18)。国府村の大部分は徳橋組に属していた10)ことになる。「国府村史」10)はこの分離併合の年に編纂されており,最終年に810ページに及ぶ立派な村史を残し史跡保全も行う文化の高さがうかがえる。「鵜川石」は,埴田村に隣接する鵜川村の特産であり,加賀藩第三代藩主前田利常は小松城の石垣にこの鵜川石を主として使用し,埴田村の波止場より梯川を帆船に積んで小松ヘ運んだ(国府村史10))というものである。

「十村」とは,十ケ村内外を支配することに由来する名称であるが,後,他組との併合により数十ケ村を支配するものも生じた(石川懸史第三編3))。農民として村役人の最高のもので,関東方面では名主,関西では庄屋(大庄屋3))にあたる。普通,組内で家柄も良く,持高も多い有力百姓が任命され,通常,世襲された。組内の15才から60才の男子一人一年に二升の米(鍬子米)を申し付け収入とした。平十村(普通一般の十村),御扶持人十村(鍬手米の他に藩から扶持米をもらい,苗字帯万を許された),無組御扶持人十村(郡内の十村の総代。公平な処置を行うため,自身の支配する組を持たない),引越十村(組内に適任者がいない場合,他の組から選ぶ)などがあった(国府村史10))。

 さらに「国府村史」10) より埴田村の場合をみてみよう。勘兵衛組(後の徳橋組)一代十村役・埴田村勘兵衛(数代いた可能性もある)の後,二代十村役・田中所平が石川郡山嶋郷宮丸村(今の松任市宮丸町)からの引越十村として埴田村に入った。以後,十村は田中家(源義経に兵法を教えた鬼一法眼の末裔と伝わる)によって世襲される。

 四代・田中所平の時代,明和九年(1772年)の記録によると,勘兵衛組には和気村,大長野村,白江村,国府村,埴田村,鵜川村,立明寺村,遊泉寺村など22村が属していた。明治になるまで十一代の十村がいたが一代・埴田村勘兵衛(田中家引越前)と五代・若杉村八郎兵衛(六代・田中半ニ,幼少のため)以外はすべて田中家であり,五代の若杉村を除き,十村は埴田村にいたことになる。七代・田中清作の時代に組名は徳橋組に改められ,その子で虫塚を建てた八代・田中三郎衛門は功績大で御扶持人十村となった。前田利常が三宅野を好んだ(利常を火葬した灰塚址がある)こともあり埴田村は「十村在所」として栄えた。それでは碑文である。(改行原文のまま)

現代語訳
 ああ,どうしたことか,当年(天保十年)は七月上旬(旧暦)までは,これまでにない好天に恵まれ,水稲の生育も順調に推移し,早々と出穂したので皆が悦んでいたのに,七月の中旬頃(旧暦)より「ウンカ」が大発生し,まず早生稲が被害を受け,枯れていった。そして中生,晩生の稲にも順々に被害が拡がって多くの稲が枯れてしまった。なんとやっかいなことになってしまったものだろう。その時の「ウンカ」を木綿の布袋に取り集めたものを二十三袋ここに埋めておく。
 それは,これから害虫の発生を見たら,まず除草を行い,早期に木実油(油桐)を使えば大発生を抑えることとなり被害が少なくなる。つまり,「除蝗録」に記載してあるとおりにすればよい。適切な害虫防除の大切さを肝に銘ずるため,後世の教訓として,この記録を残すものである。
 ( 訳責 東川 博明)

 この碑文,日頃,科学論文に慣れ親しんでいる身としては,構成が興味深い。原文1~4行にかけての気象条件,稲の生育,虫の発生状況を「緒言」,5行目の”布モメン~埋ヲク”を「材料と方法」及び「結果」,とすれば6~7行目にかけては”除蝗録”まで引用した「考察」,最後に”虫の愁ヲ恐レ”は「謝辞」(少し意味合いは異なるが)に相当させると,科学論文の形式となっており,極めて簡潔明瞭で無駄がない。十村役田中三郎衛門の知性の高さが窺える。

 虫塚の意味をさらに探るために,ここでは特に,1)こぬか虫の種類と発生量,2)除蝗録と碑文の関係,3)虫の供養,の3点に付いて考察しながら碑文を見てみようと思う。

<こぬか虫の種類と発生量>

 8月中旬(旧暦7月中旬)以降の大発生という被害状況から見て,このとき発生した”こぬか虫”は「秋ウンカ」と呼ばれるトビイロウンカの可能性が最も高く,さらにツマグロヨコバイが混発していた可能性も考えられる。トビイロウンカは海外飛来性の害虫で,近年の状況では6月中旬ころから飛来し,3~4世代発生する17)。8月の高温多照は増殖の好適条件17)であり,「當年七月上旬(旧暦)マデ順気ムルイ」との記述とも一致する。一方,ツマグロヨコバイはイネ科雑草やレンゲなどで越冬する16)。暖冬少雪年に多発し,7月中旬~8月上旬に気温が高いと9月の発生量が多い16)。これも「七月上旬マデ順気ムルイ」と一致する。原文1行目の一見逆説的な”無類の好天”の記述も,海外飛来性害虫の増殖や越冬害虫の発生に”無類の好適”な条件があったことを示しており,現在の知見と相反しない。

 いずれも体長4~5mm くらいの小さな虫で,これを五斗俵で23俵というのは凄まじい量である。18リットル(一斗)×5×23=2,070リットル。水ならば2トンの体積になる。これでも,もちろんすべてを獲り尽くしたわけではないであろう。現在,これほどの多発生はないので,この2,070リットルがウンカ・ヨコバイ何頭分に相当するかを推定することは困難である。個々の虫体の大きさはわかっても,きわめて大量のものを袋詰した場合,どれだけ圧縮されるかの見当がつかないからである。しかし,それでも強引に推定してみた。

 おおよそウンカ・ヨコバイの1頭あたりの占有体積を0.5cm×0.2cm×0.1cm=0.01cm3とすると,2000リットル中の頭数は(すべて成虫で,虫体以外のゴミが入らず,圧縮せず,且つ,隙間なく入ったとして)2億頭になる。これに幼虫(占有体積は成虫の1/10~1/20くらいになるであろう)が混入し,圧縮も加わると頭数は対数的に増えるであろう。この分の補正を加えると少なく見積もっても幼虫混入によって10倍,圧縮によって10倍として,200億頭は確実に入ったであろう。

 埴田村の当時の水田面積は不明であるが,天正九年(1581年)の記録で七町三段四十七歩,天明五年(1785年)で十町六段九畝六歩,昭和31年(1956年)で二十一町四段二畝十三歩,と推移しており10),最も近い天明のものから暫定的に十町(約10ha)として割り返すと,1㎡あたり2,000頭という試算ができる。もちろん発生した虫をすべて木綿袋で取り尽くすことは不可能であるから,実際はこれよりはるかに多い。

<徐蝗録と碑文>

 「除蝗録」6)は大蔵永常により文政九年(1826年)に著された稲の害虫防除に関する農書である。さらに18年後の弘化元年(1844年)に「除蝗録後編」6)が出版された(以下,文政九年のものを前編とする)。「蝗」は現在では「いなご」と読むが,もともとは「いなむし」として稲の害虫の総称であり,除蝗録では主として「ウンカ」の意味に用いられている。

 前編は鯨油による防除法を詳しく記述したものであり,その他の油として,雑魚油,綿実油,油桐,菜種油が列記されているが,これらの詳しい用法は書かれていない。この中で「木実油」に相当するものは「油桐」と思われるが,「江州・越前・若狭・駿河・岩見・出雲辺ハ油桐多く,蝗生じたる時ハ此油を用ふるとも聞り。」の簡潔な記述があるのみである。

 後に,弘化元年の後編になって,鯨油,菜種油を手に入れることができない場合のために,芥子(からし)油,牽牛子(朝顔)油,油桐などの用法の詳細な記述がなされるが,虫塚が立てられた天保十年(1839年)にはまだ出版されていない。それでは,なぜ田中三郎衛門は「鯨油ヲ用ユレバ」と書かずに「木実油ヲ用ユレバ」としたのだろうか。

 前編には「畿内辺の商人ハ鯨油の値上りにて西国の蝗災をしる事也」,すなわちウンカが多発すると九州(西国)で鯨油を買い尽くすので,品薄になって値上がりし,関西(畿内)の商人は鯨油の値によって九州のウンカ(蝗)発生状況を知る,ということが記されている。そういうことであれば,全国的な多発年には,石川県まで鯨油が廻ってこない,あるいは高値で買えない,という事態が想定できる。このことから田中三郎衛門は,大蔵永常の除蝗録を丸呑みするだけでなく,熟読検討し,地域の状況を考慮して,隣県・福井にあたる越前・若狭で用いられる(実際,石川県内でも用いられていたのかもしれないが)鯨油代用品の油桐を利用するという低コストで現実的な方法を選んだと考えられる。

 ”余ハ除蝗録ニ委シ”としたのは,水田に油を入れる方法が書かれているからである。「田水の湯の如く暖かになりたる時」に「畔一ぱいに水をたたえ」て「蜆の匕」で「一坪に一匕」油を滴下する,「風にしたがひ,左右ヘ稲をおしたふしJ「虫を洗ひ落とす」など詳細に記述されている。田面水上に油膜を形成し,落下した虫は油膜による気門閉塞で死に至る。当時このような作用はわかっていなかったであろうが,油膜の拡散について「田水の暖かになりたる時」との促進要因に加え,「田草多けれバ油の功なし」との阻害要因(ゆえに”草修理ノ頃ハヤク”となる)も提示しである。この「注油駆除法」,昭和の時代になり各種の有効薬剤が開発された後も,「油を反当ー~一.五升ぐらいの見当で水面に滴下させ,その上に払い落とす方法であるが,この方法は割合に手がたい方法」14)として使われていた。

 ちなみに除蝗録後編にいたっては,油桐は「実の製法」や「実の売買」についても書かれている。朝顔の仕立て方まで図解入りで記述されているのも楽しい。また前編には,発生予察(蝗の生ずるハ前年の気候と春より夏の初め迄の順不順の気候とを考えぬれば),経済的許容水準(作徳の分油代に比すれバ大ひに利あり),早期防除(早く入れバ僅かの油にて蝗速に除き)などの概念が網羅されており,”余ハ除蝗録ニ委シ”詳しくは除蝗録に委ねたい(ぜひ御一読を勧める!”)が,この項,最後に一つこだわっておきたい。除蝗録の「蝗の生ずるハ・・・春より夏の初め迄の順不順の気候とを・・・」のくだりを田中三郎衛門が見逃すはずはない。前項においても触れたが,碑文1行目の「七月上旬マデ順気ムルイ」は発生予察データをも残していることになる。

<虫の供養について>

 ”木実油ヲ用ユレバ 愁 ウスカルベシ”の「愁」は「虫の大発生による被害」を指すものであろう。これに続くのが”余ハ除蝗録ニ委シ 虫の愁ヲ恐レ”である。文脈のままに読み取れば「虫の愁ヲ恐レ」は「虫の大発生による被害を恐れ」であり,一見,虫の慰霊ではないように思われる。しかし,これほど無駄のない洗練された碑文の中に,近接して「愁」が繰り返されるからには,隠された意図があるのではないだろうか。反復を避ければ”災ウスカルベシ”でも良いはずである。

 小松市教育委員会の資料11)によると,藩政時代には,このあたりはたびたび凶作に見舞われ,とりわけ享保,天明,天保,安政時代には大飢饉がおこり,多くの餓死者を出している。特に天保四年(1833年)の冷害による凶作,翌五年の疫病の流行,同七年の再度の冷害による大凶作と続いた。また,国府村史10)によると,同八年には大風,九年には洪水があり,そして天保十年(1839年)の大虫害となつた・当時虫が空をおおいほとんど太陽を仰ぐことが出来なかったといい,始めのうちは,碑文にもあるとおり,木綿袋ですくい捕っていたが,ついに断念し田一面に火を放って焼き払ったといわれる。

 このような状況の中で”虫の菩提を弔う”という行為がはたして農民すべてに受け入れられたのだろうか? 淡々と虫の多発生による被害とその対策を碑文に刻み込む中で,被害を「災」を用いず「愁」で表現し,重ねて刻み込んだ「虫の愁」に,「虫による被害」の裏側に「虫の慰霊」の意味を隠し持たせたのではないかと思われる。

(以下,後半ヘ続く)